I am ICHIHASHI 逮捕されるまで
あまり気軽に感想を書いて良いものか、躊躇ってしまう類の作品ですが・・・
ディーンさんは中国語学習者からすると何かと気になる憧れの存在ですが(笑)、ずっと誰かに似てるんだけど・・・と思っていたのが佐藤健くんだ!と分かってスッキリしたところに(笑)、ちょうど放送されたのでシンクロかなあと思って観ました(笑)。
題材や作家性など、かなり賛否両論分かれる作品なのかなーとは思いますが、個人的には、ディーンさん映画作りも上手いんだ!と、最強説が更に補強されることになりました(笑)。スーパーマンかよ・・・(^_^;)
物語は大きく分けると主人公が自問自答する内的対話部分と、逃亡生活の描写部分で構成されています。
ちょっと内的対話部分は芝居がかり過ぎてるかなあという所もありましたが、逃亡生活の演技がすごく良かったです。
実はディーンさんの他の出演作は全く観たことがないので(^_^;)、正しいかどうか分からないのですが、けっこうそういう、佇まいで魅せるのが得意なタイプではあるのかなあと思いました。喋ったり動いたりしなくても画になるというか・・・
初監督主演作品がこれ、というのは、やっぱりかなりクレバーな人じゃないと務まらないですよね・・・
ものすごいファンというわけでもないんですがベタ褒めしちゃってますね(^_^;)
実際の事件自体についても改めてちょっと調べてみましたが、何というか、主人公(と敢えて言いますが・・・飽くまで映画の感想なので)みたいな人って、けっこう今も日本中に沢山いるんじゃないかなあ・・・と思いました。
みんな普段の生活を送る上では殊更に邪悪でも異常でもなく(潜在的には人間誰しも、邪悪で異常な面は多かれ少なかれありますが・・・)、さらに傍から見ればかなり恵まれた能力や環境を手にしていて、でも何かが滞っていて、それらを生かすことが出来ず鬱屈している。何かの拍子に、この主人公のように道を踏み外してしまわないとは言い切れない。
安直に考えると家庭環境ガーとか社会ガーとかいうことになってしまいそうですが(笑)、他人や環境を理由にするな!という正論の反論も当然出るだろうので(^_^;)、自分でどうにか出来たであろう部分であり、かつ一番根源的な原因でもあったのは、やはり自己肯定感を育てること、自分で自分を愛することだったのかなあと思いました。
顔を整形し続けたのも、逃亡生活のためという必要性を超えた強烈な自己否定が、一番の理由だったのではないかなあとも思います。
彼は事件から逃げていたのはもちろん、何より自分自身から逃げ続けていたんだろうとディーンさんは手記を読んで分析したようですが、その「自分自身からの逃亡」というのが、この映画のテーマになっています。
なので事件自体の具体的な描写や、逃走経路を時系列順に正確に描くといったことは主眼になっていないので、その点が分かりにくいという批判もちらほら見かけましたが・・・
個人的には、この事件と、それを引き起こした主人公の心理の本質を的確に表現しようとしたら、こういう形になったんじゃないかと思います。
主人公が抱えていたものは、現代の、特に日本人の多くが共通して抱えている、カルマ的なものかもしれません。閉塞した不完全燃焼感というか・・・
ディーンさん自身は明らかにそういう日本人のカルマから自由な存在ですが(笑)、だからこそ冷静にこの事件を扱えたのかなと思いました。
ディーンさんは中国語学習者からすると何かと気になる憧れの存在ですが(笑)、ずっと誰かに似てるんだけど・・・と思っていたのが佐藤健くんだ!と分かってスッキリしたところに(笑)、ちょうど放送されたのでシンクロかなあと思って観ました(笑)。
題材や作家性など、かなり賛否両論分かれる作品なのかなーとは思いますが、個人的には、ディーンさん映画作りも上手いんだ!と、最強説が更に補強されることになりました(笑)。スーパーマンかよ・・・(^_^;)
物語は大きく分けると主人公が自問自答する内的対話部分と、逃亡生活の描写部分で構成されています。
ちょっと内的対話部分は芝居がかり過ぎてるかなあという所もありましたが、逃亡生活の演技がすごく良かったです。
実はディーンさんの他の出演作は全く観たことがないので(^_^;)、正しいかどうか分からないのですが、けっこうそういう、佇まいで魅せるのが得意なタイプではあるのかなあと思いました。喋ったり動いたりしなくても画になるというか・・・
初監督主演作品がこれ、というのは、やっぱりかなりクレバーな人じゃないと務まらないですよね・・・
ものすごいファンというわけでもないんですがベタ褒めしちゃってますね(^_^;)
実際の事件自体についても改めてちょっと調べてみましたが、何というか、主人公(と敢えて言いますが・・・飽くまで映画の感想なので)みたいな人って、けっこう今も日本中に沢山いるんじゃないかなあ・・・と思いました。
みんな普段の生活を送る上では殊更に邪悪でも異常でもなく(潜在的には人間誰しも、邪悪で異常な面は多かれ少なかれありますが・・・)、さらに傍から見ればかなり恵まれた能力や環境を手にしていて、でも何かが滞っていて、それらを生かすことが出来ず鬱屈している。何かの拍子に、この主人公のように道を踏み外してしまわないとは言い切れない。
安直に考えると家庭環境ガーとか社会ガーとかいうことになってしまいそうですが(笑)、他人や環境を理由にするな!という正論の反論も当然出るだろうので(^_^;)、自分でどうにか出来たであろう部分であり、かつ一番根源的な原因でもあったのは、やはり自己肯定感を育てること、自分で自分を愛することだったのかなあと思いました。
顔を整形し続けたのも、逃亡生活のためという必要性を超えた強烈な自己否定が、一番の理由だったのではないかなあとも思います。
彼は事件から逃げていたのはもちろん、何より自分自身から逃げ続けていたんだろうとディーンさんは手記を読んで分析したようですが、その「自分自身からの逃亡」というのが、この映画のテーマになっています。
なので事件自体の具体的な描写や、逃走経路を時系列順に正確に描くといったことは主眼になっていないので、その点が分かりにくいという批判もちらほら見かけましたが・・・
個人的には、この事件と、それを引き起こした主人公の心理の本質を的確に表現しようとしたら、こういう形になったんじゃないかと思います。
主人公が抱えていたものは、現代の、特に日本人の多くが共通して抱えている、カルマ的なものかもしれません。閉塞した不完全燃焼感というか・・・
ディーンさん自身は明らかにそういう日本人のカルマから自由な存在ですが(笑)、だからこそ冷静にこの事件を扱えたのかなと思いました。
コメント
コメントを投稿